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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

対象体験情報本質写像本質脳分散情報処理




このページタイトルは、半角40字までなので、こんなふうに略しています。
対象体験情報本質写像本質脳分散情報処理と。



(クオリアと意識について1~2~3~4~5
意識とクオリア・まとめ1~2~3
すべて含めた)





対象・体験とその本質、情報の本質、写像とその本質、脳での局所的・分散並列的情報処理と変換など(本質と変換など)1~12



人間の活動を、形而上的なもの(範疇)と形而下的なもの(範疇)に分ける。

前者は、ひとことで言えば、心(定義は、メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎、に複数あります)での情報処理のようなものと、生体維持のための情報処理のようなものである(投稿のどこかに具体をたくさん並べ挙げています)。

後者は、ひとことで言えば、肉体の活動、肉体の活動によるもの、であるが、それは、心がコントロールしている。
ただし、外界から何らかの働きかけを受けることにおいては、自分の心がそのコントロールに参加できるケース(こうすれば、あの人はこうするだろう、その結果そうなった、などです)と、参加できないケース(直前のそれにおいて、そうならなかった、とか、全然予期しない働きかけを受ける、などです)がある。

そこにおいて、前者が後者を制御している(ただし、直前の記述の中で、そこから外れる例があることがわかります)。

以上の記述を基に、人間の活動を、「形而上的な活動」と「形而下的な活動」のふたつに分け、そう名付けます。



さて、その「形而上的な活動」に焦点をあてます。

人間は体験や言動によって、外界から情報を受ける。
(ここでいう情報というのは、形而上的な活動における活動の素材プラスアルファであって、心的内容も含ませたものという感じです。コンピュータでいえば、電気的信号、電気的パルスコード(二進法によるものも含めて)、プラスそれらのもつところの、人間における意味などに当たります。すっきりした定義がしにくいのでそう表現します。それは非常に多くの内容をもつ。実際のところ情報という表現は適切ではないのですが、ほかにいいのがなさそうなのでその単語をあてます。具体的にはそのうちに記します)。
(対象からの情報を受ける、という実態もそこに含める(たとえば、景色を眺める、など))。
(皮膚感覚などによる感覚情報もそこに含める)。


注)体験や言動において、自分から情報を出す(と表現します。それは非常に多くの内容をもつ。この情報の定義についても研究中)こともやっているし、それら受けることと出すことにおいて、脳などの中でそれらが交錯した処理がなされていて非常に複雑であって、そこまで踏み込んでいっしょに研究するのは、とても難しいので、出す方については別に論じます。


それら情報は、感覚器官などで受け、感覚器官などがそれら情報をなんらかに処理・変換し、脳に送り込む。

つまり、体験や言動(の情報)は、なんらかに情報処理・変換され、脳に送り込まれる。

脳の中では、それら情報たちはなんらかに処理され、さらに変換され、意識の器に送り込まれる。

注)ここでの「意識の器」の定義は、この次の、注)にあります。

そこにおいて、それら体験や言動は意識し味わわれる。

注)ここでの「意識」というのは、私の投稿「メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎1~X(最新です)」にある、
「定義1;医学的に、意識がある、という場合の意識、にもっとも近く、意識し味わうだけの性質・機能であって、人間において一生変化しないものであって、例えれば、コンピューターのモニタの機能に似ている意識。
意識の器(ハードウェア)はモニタで例えられる。
これは要検証。」
の意識です。

それは、それら体験・言動・対象の写像(写像の定義は他のところで行います。ひとことでいうと、体験・言動・対象を最も正確に情報変換した情報)を意識し感じ味わっているように見える。

そこで課題として、対象・体験・言動そのものとはいったい何だろう、対象・体験・言動の本質的情報とはいったい何だろう、それらと既述の写像との関係はどうなっているのだろう、などという課題がでてきます。

注)「それら体験・言動の写像」というのは、「意識内容」に等しく、それは、私の投稿「メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎1~X(最新です)」にある、
「意識内容の定義2;なんらかのエネルギーに伴われる波動パターン・変化していく波動パターン。
これは、意識内容のハードウェアの定義2に(と)同じ。
意識内容の定義3;なんらかのエネルギーに伴われる波動パターン・変化していく波動パターンの内容。」
にある「意識内容」です。


対象のない情報というものもありそうです。
たとえば、皮膚感覚の情報など。





体験の本質
対象の本質
情報の本質
心的内容の本質
変換
意識内容の本質


体験・対象の本質をなんらかの変換によって情報に変換する。まずは感覚器官などによって、ついで、脳によって、または
脳に対応した何かによって、あるいは、後者ふたつによって、変換する


情報をなんらかに操作・加工する(ここは心が行う。要検証の定義)(知性・思考、
(思考には言葉も関わっているように思えるが、そこは単純ではなく非常に複雑である
(研究中



心、言葉、思考、知性、意識、の工学的モデルの構築・定義の構築
それがないとあいまいすぎて追求ができない
(メモ;質の科学・意識とクオリア・心脳問題の基礎1~X(最新です)で、それを行っています)




操作・加工した情報をなんらかの変換によって意識内容に変換する


(脳~脳の活動~心~意識


意識内容の中に意識内容の本質がある
意識内容のハードウェアはなんらかのエネルギーの波動
意識内容の本質はなんらかのエネルギーの波動パターン、あるいはそれに加えることの、その波動パターンの内容
(ここも要検証)

空間のエネルギーなどを用いて、対象に意識の器が共振することができるのならば、その共振によって生じた波動パターンが対象の本質・対象の内容(と定義する。要検証)



以上のような方面にも挑戦していきたいと思っています。


それらを順に研究していくのは、非常に難しいので、まずは取り組みやすいものから追求していきます。



(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



それらの中で、まずは、関心の高い課題である、最も後にくる変換について研究してみましょう。


脳の情報処理における変換


さて、
人間の外からの情報を感覚器官で脳に送り込み、さらに意識の器に送り込むにあたって、その流れの中にある変換の在り方にはどういったものが考えられるのでしょうか。
あるいはそれに加えて、
脳の活動(思考、感情、知性、その他)による心的内容を、意識の器に送り込むにあたって、その変換の在り方にはどういったものが考えられるのでしょうか。
(それらふたつの項目の内容の実体は、複合している・絡まり合っている)

別のところで触れたように(私のブログのどこかにありますが)、そこでは、ニューロンたちの局所的な活動が、非局所的で一体性・全体性をもつ心的内容・意識内容へと変換されています。

その変換について考えつくままに列記してみます。

フーリエ変換
ホログラフィー変換
走査
ツイスター変換的変換(これは、茂木健一郎さんのサイトで知ったもので、茂木さんのアイディアです。ツイスターを考えた外国人さんのアイディアですか?)(これについては、私はほとんど知りません)
などが参考になるかもしれません。

フーリエ変換は、時間経過を伴った対象の情報の変換において時間をたたみ込んでしまう。
ホログラフィー変換においては、空間配置に関して、全体に部分が含まれ、部分に全体が含まれてしまう。
走査は、対象の情報化において、時間のズレがあっても、それをゼロにしてしまう(ゼロにみえるようにする)。
ツイスター変換的変換は、局所的なものたちを非局所的な在り方に変換する。

ただし、そういった変換に類する変換ができたとしても、変換された情報の送り込み先というものはあるはずであり(先に述べたことの延長線上にある仮定)、そこは、一体性・全体性を形作っている何か、つまり「意識の器」でしょう(要検証)。

その対応・変換、は、意識の器・意識内容の「実体・性質・特性・規格」が出発点になっていることはいうまでもありません(と思いますが、要検証)。
意識の器・意識内容の規格を考慮せずに、脳の中でたんに変換としてよさそうな変換をやってみたら=脳がそうつくられていたら、それがちゃんと、意識の器の機能・意識内容の規格、に正確に対応していた、などということは考えられないからです。

ただ、脳に直接端子を設け、音や映像の装置からの信号を送り込み続けると、脳はそれに適応していく、という現象・事実を現す、ということはあるそうですが。それもなんらかに関係しているのかもしれません。
それは、脳の適応性を示すものであって、その適応性は、進化によって生まれてきたのか(ランダムによって生じ、適者生存とか、その他の進化の在り方によるものとか、その他とか)、知性的な存在が関わってこなければ、今回の進化が成し遂げられたような短期間ではその達成は不可能である、とか、
(ここに関することもややこしすぎるので、ここでは省略します。春楽天ブログの、どこかに書きました。こういった論について、対象があまりに大きく広く膨大なので、まとめきるのはかなり先のことになると思います)


質の科学における「意識」「意識の器」と変換へのアプローチ


そこで、
「意識」のもつ特性である、一体性・全体性、が、脳の中において、脳の活動において、どう構成・現出されるか考えてみましょう。

脳のなかで最も波動性が高いのは電子です。

中間子は一時的にしか現れないだろうし、その波動性は電子よりはるかに小さいものです。
クォークがあるとしてもまずは現れないだろう(結合して納まっているという感じですか)。
超ひも理論の超ひもがあったとしてもそれも現れないだろう(これも結合して納まっているという感じでしょう)。

その電子にアプローチしてみましょう。

特殊な関係性をもったふたつの電子が、どんなに離れていても、瞬時に特殊な情報みたいなものを交換できる、という現象はあるけれども、
意識やクオリアに関わっているようにみえる数多くの電子たちが、一体性・全体性を形づくることはない・できない。
とくに波動性においてそうである。
(物質的にですらそうであるともいえる。離ればなれである)
そういう結論に至ります。

ということは、電子たちは「意識の器」を構成できないということになります。
(電子一個または数個のなんらかの状態に意識が生じる、とすると、おかしなことがいくつかでてきて、その可能性は否定されるだろう。たとえば、一人の人間が数兆の意識をもつ、などといったことがでてくる。もちろん意識の定義によるが)

つまり、「意識の器」というものは、物質的には構成できない・つくれない、ということになります。
そこに、物質的に構成された存在の活動も含めます。

となると、いったいどういうことになるのでしょうか。
人間には意識はないということになる、ということはないのは確かです。

ということは、「意識の器」というものは、先に述べたように、なんらかのエネルギーが一体性・全体性をもってひとまとまりになったものである、とするしかないということでしょう。


注)ノーベル賞物理学者・南部陽一郎さんの「ひも理論(弦理論)」、そこから発展させられてきた「超ひも理論(超弦理論)」も、超微細なひもの振動モード・パターンで、素粒子や物質の性質や構造の説明、すべての力の統一理論、などを追求している。
波動パターンというのも、それらの超微細なひもの振動モード・パターンと同じ概念であって、拒否する要素はないといえます。



ついで、その変換ですが、
質の科学では、そこのところは、
「なんらかに変換して」
で済ませることができます。

それで十分なんです。質の科学においては。

なぜなら、質の科学では、意識の主体(意識の器)というものの存在は、さまざまな根拠からいって、自明のことである、としているからです(まだ仮説ではある。検証もなされていない)。

つまり、脳はさまざまな情報を局所的・並列的に処理しているけれども、それらは結局なんらかに変換され、意識の主体(器)に送り込まれ、そこで意識・意識内容(クオリアを含む)が生じる、という結論を得ているのです(まだ仮説ではある。検証もなされていない)。

よって、変換については省略してもかまわない、ということです。

しかし、茂木さんのサイトで、そこがひとつの大きな課題になっていることを知ったので、そこにも挑戦してみます。

そこをもっと詳しく追求していくとこうなります。

まず、脳の中で、局所的に情報処理を行っているニューロンたちの一団、そういった一団が数多くあり、それらの一団たちの多くが欠けても、意識は変わらず存在する。

ということは、それらは、意識を担っているのではなく、意識に送り込む情報の処理をやっているにすぎない、ということになります。

(そのことは、意識は決して変化せず、それ以外の脳の機能たちはどうにでも変化できるし変化していく、ということでもある)。

ということは、「意識の器」は、それら脳自体ではなくどこかに存在する、ということになるでしょう(それら脳自体に対応しているという在り方をも含めて)。


(それに関してもその他にもいくつもの根拠があり、それらを私のブログ(楽天ブログ。ハンドルネーム・春楽天)のあちこちに挙げてあります(私のノートやPCなどにも書き込んであります))。


さらに可能性として考えて、
脳がホログラフィー的な在り方をしていたとしても、結局は、「意識の器」は存在するという、同じ結論に至ります。

そういった「意識の器」にしか意識は生じないという結論を得ているからです(要検証)。


その変換と数学


現在、意識やクオリアの研究において、先に述べた変換が課題になっているようなので、私もそれに非常に強く興味をもちました。

私の数学の力は、まったくもってたいしたことはなくて微々たるものですが、私はなんでも考えたがるので、ヒマが増えたら、それに挑戦するかもしれません。

数学というのは、既存の数学の中に必要なものがなければ、つくりだせば(発見すれば)よい、という興味深いものでもあります。

その数学が矛盾なく働き、現実に適用したばあい、現実に対応した結果を示せればそれでオーケーなわけです。
おもしろいですね。


そういった数学によって、有効な変換が探しだせ、結論にたどり着いたらたぶん、先に述べた「意識の器」の存在が導きだされていることになるでしょう。



「意識の器」へのアプローチ


さて、「意識の器(主体)」なるハードウェアについてさらに研究を進めてみましょう。

すでにそういったモデルのイメージをいくつか挙げましたが、もっと記してみます。

1。ごくごく薄い膜の袋の中に気体が詰まっているようななにか、というイメージ。

2。中心部あたりに、引きつけるエネルギー的ななにかがあって、周りを引きつけられるエネルギー的ななにかが取り巻いている、あるいはそれに定常波的ななにかも加わる、というイメージ。

3。ある程度以上近づけば反発しあい、ある程度以上離れれば引き合うというエネルギー的ななにかの集合体。

4。たとえば、変動電界(のようなもの。変動エネルギー場)と変動磁界(のようなもの。前者と対をなす変動エネルギー場。あるいは別な変動エネルギー場)が、その法則に従ってうねりあっていて、しかもボールのようにまとまっており、移動しないでいられるなにか、というイメージ。

以上をイメージ思考で拾いあげたのですが、それらを数学的に記述できるのでしょうか。

<1。>は、音波の力学で攻めたくなるモデルです。
その袋の形状が変化する、という条件を与えると、手がつけられなくなるのかもしれません。

<2。>は、原子構造をモデルにしていますが、原子構造が数式で完全に記述できているわけではありません。
それに、そのやり方では、目的を達成できそうにありません。
そのモデル自体を否定する根拠は見いだせていませんが。

<3。>について。化学などの概念の中に、そういった力の関係のある存在があると考えたことがあります(たとえばゴム)。
それは、拡散せずしかも移動もしないでいられるという「意識の器」の条件を満たしています(それは、ここに挙げた4つのモデルすべてについていえます)。

<4。>の一部は、電磁波をモデルにしていますが、それだけではなく、ボールのようにまとまっていて、しかも移動しないでいられる何か、という条件が加わっています。
これも非常にユニークでしょう。
コンデンサーとコイルを多数組み合わせると、その電子回路的な模擬モデルがつくれるかもしれません。

そのほかにも;
5.池の水面に、砂粒をたくさん投げ入れると、砂粒たちによって波紋源がたくさん発生し、それら波たちが合成されて複雑な波紋のパターンをつくりだす、そういったイメージで多次元(三次元以上)のモデル。

6.超ひも的な存在によって構成され、波動性が非常に高く波動性においてひとまとまりになったもの、というイメージのモデル。

7.波動性の非常に高いエネルギーたちがなんらかの結びつける力によってひとまとまりにされ一体性・全体性を形づくっているもの、というイメージのモデル。
そういったものが考えられます。


注)ノーベル賞物理学者・南部陽一郎さんの「ひも理論(弦理論)」、そこから発展させられてきた「超ひも理論(超弦理論)」も、超微細なひもの振動モード・パターンで、素粒子や物質の性質や構造の説明、すべての力の統一理論、などを追求している。
波動パターンというのも、それらの超微細なひもの振動モード・パターンと同じ概念であって、拒否する要素はないといえます。


こうアプローチしてきて、気になってくるのは、フーリエ級数・展開・変換です。


そこで、意識の器の中での波動パターンについて研究してみましょう。


(以上、意識とクオリア01まで)


(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)




意識内容の実体・実態/もっとも本質的・根元的な情報・表現・内容形態/意識の器の中での波動パターン


さてここで、その変換について考えるためにもということも含めて、
意識の器の中ではいったいどんな波動パターンが生じているのか考えてみましょう。

つまりたとえばそれは、ひとつの景色をとりあげ、その景色からの光の集団(その景色の情報をもつ)と、それが意識の主体(器)で意識し味わわれるときの意識の主体内での波動パターンとの関係はどうなっているのだろうか、ということも含めた問題提起です。

それは、
意識の器の中で、その景色の映像がそのまま生じ、それを意識し味わうのか、それとも、意識の器の中での波動パターンは、その景色の映像をなんらかに変換したもの、または、より本質的な表現形態の波動パターンなのか、それらのうちのどれなのだろう、またはその他の在りようなのか、
といったような課題設定です。

まず、もっとも本質的・根元的な情報・表現形態とは、いったいどんなものなのでしょうか。
それは、その景色からやってくるその映像情報の光の集合(集団)、それそのもの、でしょうか。

そのばあいの光の集合は、たとえば観測者を設定して、その観測者の一部(いくらかの領域を占めている)にやってきた場合、そこから見たとみなされるその景色の映像情報のすべてを(一応)もっています。

その景色からの光の集団は、光についての、強さ・波長・位相(波が歩いていく=進んでいく、と考えて、その波の足どり・波の形、の、基準の波からのズレのようなもの)をもっています。

その三つの情報がそろっていれば(あるいは加えることの、それぞれの光がやってきた方向)、元の景色の映像をカラーで立体的に再現できます。

そのうちの強さと位相の情報を記録してしまうのが、ホログラフィーというやり方で、それを映したものが、ホログラムと呼ばれる縞しまの写真のようなものです。

(このシリーズで、ホログラフィーと記すべきところを、ホログラムと書いてある個所があります。訂正はしません)

なんらかのやり方で、波長の情報(色についての情報となる)も記録しておけば、カラーの立体像が再現できます。

そのばあい、レンズは用いません。

面白いですね、レンズなしですよ。

それにたいして、
その光の集団に対して、たとえばピンホール(針穴写真機という楽しいおもちゃがあります)やレンズを用いて、像を結ばせることができます。

それを写真撮影したものが、映像写真であり、そこには、その三つの情報のうち、位相についてのそれは含まれず、強さと波長の情報が記録(完全ではなく合理的に)されます。
位相についての情報は切り捨てられてしまいます。
(そのうち、電子的に位相についての情報も記録(三原色の)できるようになれば、さらに、それら情報を再生できる画面がつくられれば、すごいカラーの立体映像再生装置ができることになります)。

(以上、ホログラフィーに関わった記述には、まちがいがあるかもしれません。ネットで短時分勉強、しただけですので)

今の研究の流れの上で、ここで考えるべきことは、結ばせた像とその直前の像の光の集合、のどちらが、より本質的・根元的であるか、ということです。

注)対象そのものがもっとも本質的な情報でしょうが、それを直接認識ことはできない、という立場で考えています。
ただ、意識の主体が、空間のエネルギーなどを使って対象と共振し、対象を直接意識・認識(認識は心の機能)できる可能性はあるのかもしれません。

普通、レンズなしでは(特に眼にあるレンズ)景色は見ることができない、と思いますよね。

ところが、そうとはいいきれないようです。

前の方には、映像としてのすべての情報が含まれています。
あとの方では、位相についての情報が映像化した時点で失われてしまいます。

ということは、
意識の器にとっては、というか、本質的な存在にとっては、レンズを用いて結ばせた像の波動パターンよりは、その前の段階の光の集合の方が、波動パターン(対象の映像情報としての)としてなじむのではないか、と考えるのは妥当なことだといえるのかもしれません。

注)このブログでの結論として、地上に生物が存在していなかった時点でも、知性体という存在があった可能性がある、という内容があります。
その立場に立つと、知性体には目にレンズがないはずであり(たとえ目はあっても)、そういった光の集団をそのまま認識できないと、行動が恐ろしく不自由で、たいした活動ができなかったでしょうから、そうできたはずである、という結論に至ります。
あるいは、すでに述べたように、知性体は、空間のエネルギーなどを使って対象と共振し、対象を直接認識できるのかもしれません。

肉体の経験やコントロールのために、レンズのついた目は必要なのであって、本来、意識の器・本質的な存在、にとってはレンズなんていらなくて、対象からやってくる光の集団=直接映像、をそのまま直接意識し味わうことができるのではないか、と推察するのに有効な根拠がある、といえるでしょう(知性的な存在においては、映像情報を直接認識することができるのではないか、となります。意識の主体と知性的存在は異なる)。

そこで、
意識の器は、脳を覆い、脳に覆われているから、直接映像としての光の集合は受けられないので、
目~脳を通して変換した情報として意識の器に送り込んでいるとして、
その情報は、直接映像としての光の集合、に戻してやっているのではないか、
そういう可能性をも考えてみるわけです。

もちろん、そう戻してなくて、二つの目からの情報を立体映像として、意識の主体に送り込んで、それを意識の主体が意識し味わう、という可能性も残したままで考えています。

意識の主体は、そのふたつのモード、または、それ以上のモードを駆使できる、という可能性もあるでしょう。


そこで、
ふたつの眼によるふたつの映像を、視差によって立体映像にするのは、どういったやり方でなされているのでしょうか。

それはホログラムではない。

(このシリーズで、ホログラフィーと記すべきところを、ホログラムと書いてある個所があります。訂正はしません)

二つの眼それぞれにやってくる対象の景色からの光の集団は、わずかな違いがある。
つまり、どちらか一方の眼にやってくる光量子たちのすべてとまったく同じそれらが別な方の眼にやってくることはなく、いくらか異なったものたちがやってくる。
それらやってくる光の集団をそれぞれの眼が位相情報を切捨て情報化する。
そして、それら二つの眼からの映像情報を突き合わせると、そのわずかな違い・差の間に干渉が起こって、新しい一本化された情報となる(それが意識の主体の中で自然に起こる、という可能性も考えられる)。
その一本化された情報とは、対象の立体映像である。
そうなっているのだろうか。
その一本化された情報の中に、位相の情報を甦らせている、ということはありうるのだろうか。
景色からの直接の情報が最も情報量が大きく、元の情報(眼たちからの)はそれより情報量が小さい。
元の情報(眼たちからの)から一番情報量の大きな原情報(景色からの)を再構築することは不可能だろう。削ぎ落とした情報を再生させることはできない(難しい)からである。
(ただし、再生する定式化された方法があれば話しは別だが。たとえば、コンピューターで3Dアニメをつくるソフトのようなものがあれば。それでも細部まで完全には再構築できないはずだが)。


ここで少し前にもどります。

景色からの光の集団=直接映像、が意識の器に至るとどうなるか、考えられることをあげてみましょう。

その中のそれぞれの光量子たちが、意識の器を構成するエネルギー素子に入り込み、
とか、
意識の器を構成するエネルギー素子が、それぞれの光量子たちから情報を受け取り、
とか、
意識の器の中で、それら光の集団がいっぱいに広がって、
とか、
ともかく、その光の集団そのものか、それからの情報が、意識の器の中で波動パターンになる、
といった可能性はあるでしょう。

もしそうであるなら、それは、意識の主体が脳から離れたら、レンズなしで直接景色を意識し味わうことができる、ということを意味します。

注)意識の器は、なんらかのひとつのエネルギー的存在である可能性についても既に言及しています。


さてそこで、それ以外の;

音の世界についても同様で、意識の主体(器)は、音の振動に直接触れると、そこから情報を得て、直接音の世界を意識し味わうことができてもおかしくはない。

匂いの世界についても同様で、意識の主体(器)は、匂い分子に直接触れると、そこから情報を得て、直接匂いを意識し味わうことができるのかもしれない。


そのほか、意識の器は、空間のエネルギーなどを用いて、対象と共振(共鳴)できるのかもしれない。
意識の器は波動性がきわめて高いから、すべての存在に共振できる可能性をもっているのではないか。
それは映像や音による認識(意識)ではない。
それは直接認識(直接意識)といえる。
その共振による情報も、最も根元的な情報・表現形態のひとつである可能性が高い。

(意識の主体が他の意識の主体と共振したらどうなるか。
知性体<別なところで述べる>が他の知性体と共振したらどうなるか。
そういった方面の研究もできる)。


再び注)ノーベル賞物理学者・南部陽一郎さんの「ひも理論(弦理論)」、そこから発展させられてきた「超ひも理論(超弦理論)」も、超微細なひもの振動モード・パターンで、素粒子や物質の性質や構造の説明、すべての力の統一理論、などを追求している。
波動パターンというのも、それらの超微細なひもの振動モード・パターンと同じ概念であって、拒否する要素はないといえます。



ここでは、意識の器の中での波動パターンは、どういった姿をとるのだろうか、ということも追求しているわけですが、それについてどう考えていけばよいのでしょうか。

抽象的に考えると:
視覚情報の場合、対象の映像がどのような形で反映されているか、
聴覚情報の場合は、音そのものがどのような形で反映されているか、
そのものずばりの情報がそのままで波動パターンをとる場合、どうなっているのか、なども課題として考えられます。
注)そのものずばりの情報というのは、視覚情報、聴覚情報も含めて言っている。そのほか匂い情報もあるが、そのものずばりの情報、という表現は意味がはっきりしない表現で削除しようかと迷う。しかし、なにかしら魅力があるので、あえて残しておきます。イメージ思考を刺激してくれるから。
ほかにも追求すべきことはたくさんあります。

そのほかの情報の場合は(思考、感情、知性的な働きによる心的内容、身体を動かすときの心的内容、感覚、そのほか)、まったく推察もできない(それも、そのものずばりの情報ともいえるだろう)。
実際に意識の器のそれを観察するしかなさそうである。



さて、
意識の器の中での波動パターンを計測するには、現在のトランジスタを越える性能をもつ素子が必要である。


さらに、
量子力学でたとえば電子の振舞いを記述すると、複素数が現れるが、その複素数を想定する複素空間は実在するのか実在しないのか、という問題もある。

それが実在するとなると、意識の器は、その空間に存在するという結論がでてくるかもしれない。

その立場で、複素空間の情報・エネルギーを感知できる装置は、それに適用できる新しい素子たちを開発できるか否かにかかっているのだろう。


(以上、意識とクオリア02まで)



ふたたび、「変換」について


ここで再び変換についての研究に戻ります。

すでに述べたもの以外の変換として、イメージ思考で拾い上げたのはこんなイメージです。

意識の器(意識の主体)は、なんらかのエネルギー的な存在である、というのはそのままとする。

まずは、「意識の器」を、時間変化を伴った三次元(とりあえず)の存在とみなして、
それが、脳を覆っている・脳に重なっている(あるいは何らかに連絡している)として、
意識の器の任意の点におけるエネルギー密度をρと表して(ρの次元はエネルギー/体積)、
そのρは、脳のニューロンたちの活動における電位(あるいは加えることの磁界)の変化に感応して、ρが時間と共に変動するのでρ(t)で(ここでエネルギーがいくらか意識の器に入ってきそうである)、
任意の点のエネルギーを全体に渡って積分して;S=∫dxdydzρ(t)dt
;S=意識の器全体のエネルギーの総量
ρ(t)は位置によって異なるので、
ρ(t)→ρ(x,y,z,t)
S=∫dxdydzρ(t)dt→S=∫ρ(x,y,z,t)dxdydzdt
(数学的にもいい加減な表現です。イメージを表現しています)
となって・・・
S/dxdydzdt=ρ(x,y,z,t)
(数学的にもいい加減な表現です)
これは、エネルギーについての密度関数の微分方程式といったところでしょうか。
その系の総エネルギーSは時刻によって変動するのかしないのか、場合分けする必要があるでしょう(任意の点におけるエネルギーは変動する)。
Sが変動するとしたら、エネルギーが外部に出ていったり、外部からはいってきたりする、ということになります(先に、ここでエネルギーがいくらか入ってきそうである、と記述した個所あり)。
そのイメージとしては、先にだした、「池」のたとえ(二次元的プラス時間、ですが)が参考になるでしょう(池の表面に数多くの砂を落とすと、そこに複雑な波紋が生じる)。
しかし・・・
まだまだ必要な項目やより具体的なことに対応したなにかが足りない・・・
それを解こうとしても解けないでしょうね。

それは関数化できるようなシロモノではないだろう、よって解けないだろう、場合分けと確率的な記述ならできるかもしれないけれど、といったような可能性については既に記しました、知性などについての研究のところで。(このモデルは初出ですが)。

解けた場合は、その「変換」がどこかにでてくるでしょう。

でもとにかく、解けそうにない。


繰り返しの注)ノーベル賞物理学者・南部陽一郎さんの「ひも理論(弦理論)」、そこから発展させられてきた「超ひも理論(超弦理論)」も、超微細なひもの振動モード・パターンで、素粒子や物質の性質や構造の説明、すべての力の統一理論、などを追求している。
波動パターンというのも、それらの超微細なひもの振動モード・パターンと同じ概念であって、拒否する要素はないといえます。



と思ったものの、もうちょっと踏ん張ってみましょう。

まず、脳におけるニューロンの活動の位置は点ではなく、ある程度の範囲をもった領域(シナプスでの活動についても)です。その意味では、そこにおいては極限の操作をなす微分や積分は必要ではない(あるいは使えない)のかもしれません。

一方、意識の器のほうは、エネルギーのまとまった存在として、そのモデルと理論は(筆者は、という意味と同じ)考えています。

(一応考えられるのは;
そこでは、
微積分を使えるという立場、
脳に対応させるのだから極限の操作は無意味であり、微積分は使えないという立場、
のふたつがあるでしょう。
しかし、
意識の器は精密・緻密なエネルギーのまとまり、と考えられるので、近似的に微積分を一応適用できる、とみなしましょう。
<ここは一応記しただけです>)。

先の記述においては、
脳のニューロンたちの活動による、それらの電界(あるいは加えることの磁界)の変動が、そこを覆っている(あるいはなんらかに連絡している)意識の主体の多くの点(点といっても広がりのある領域でしょう)に、なんらかの変動を与え、その変動が意識の器全体に(ほんのわずかな時間経過で? 瞬時に? 時間ゼロで?)波及していく、
ということになるでしょう。

意識の器は、一体性・全体性をもっている意識し味わう存在・実体ですから、それら波及していく変動(波動パターン)が、意識内容であり、そこに意識も意識内容の質(クオリア)も発生する、ということになるでしょう。

さて、問題の「変換」です;
脳は、意識の器の規格・性能・特性に則ってつくられている、とすれば(仮定ですが、それ以外ないでしょう)、
脳のニューロンたちの活動(局所的・部分的な)によるエネルギーの変動たち(変動するエネルギー)を脳のあちこち(それらに接している・連絡している)にそのまま送り込んだら、それらが意識の器全体に波及し、そのままで意識の器の中で、全体性・一体性をもった情報(心的内容・意識内容)(心的内容と意識内容は異なるのであるが、一応こう記しておきます)に総合・統合されてしまう、
ということである可能性もある。

たとえば、動画・撮影のためのデジタル式カメラは、走査という操作をやっており、それを画面に映し出せば、元の映像(に似たもの)が再現されます。
(フィルム式カメラでも、電子的に情報を処理する・送るためには、走査という操作を行う。デジタルカメラでは、受光面(CCD)自体では景色全体を受けて映しているが、それをそこから送り出して記録したり電送したりするにあたっては、走査する)。

注)走査というのは、対象の情報を一瞬にして読み取ることはできないので、対象を多くの区画に分けて、いくらか時間をかけて、それらの区画の情報を順番(なんらかの順)に読み取っていくことをいう。
それを再生するばあいは、走査の逆を行い、走査放出、という感じになる。

それと同じようなことが、意識の器~脳の系では起こっているのだろう、ということです。
(あるいは、既に述べたように、ホログラム変換、フーリエ変換、の可能性も排除できません)

ですから、その立場では、その「変換」は、意識の器の中で自動的になされる可能性が高い、と考えられます。

注)既に述べましたが、脳に端子を設け、視覚信号や聴覚信号として、カメラやマイク的な信号を直接送り込むと、脳はそれに有効に対応していくそうです。
そのことは、脳は意識の器の規格・性能・特性に基づいて設計されつくられている、という印象をもたらします。つまり、その有効な対応という現象は、意識の器の規格・性能・特性に基づいて行われるとしか考えられないのではないか、ということです(断定はしない)。

注)さらに、人間において、ある種の薬剤によって、見ている景色がゆがむ、といった現象も起こるそうなので、それも同じく直近の結論に至らせます。脳が本来どおりに働かないと、映像が歪む、と解釈できるからです。
(ここにはもっと考えるべきことがある。「知性的な存在」と「意識の主体」との関係などについて)


(参考:
脳内では、局所的処理をされた情報は統合されない?

脳の活動と意識を例えるのに、すでに何度かコンピューターをもってきた(当てた)が、意識というのは、モニター画面に当たる。

コンピューターの演算装置や記憶などは、時間的なズレや位置の違いのある情報処理、を行っている。

それらの結果がモニター画面でモニターされる。

さらに、超多並列処理のコンピューターシステムで例えると、もっとよく理解できる。

そういったコンピューターは、その内部で、空間的にも時間的にも、ものすごい分散処理・並列処理(局所的処理)を行っている。
(その処理を統括しているプログラムのもとに、である。脳と意識の器においては、その統括するプログラムというのは、意識の器の規格・性能・性質からでてくるソフトウェアのようなものであるだろうし、それに基づいて脳は設計されつくられているのだろう。その立場が正しいとすると、変換作業は意識の主体内で自動的になされる可能性が高いだろう)。

それら処理された情報は、モニター画面で統合され一体化され、その情報の全体像を表す・現す(実際はモニター画面内で情報が走査放出され映し出されている。つまり、ほんのわずかな時間差のある情報たちを、時間差が見えないようにして見せている)。

コンピューター本体の内部で、それら情報たちを統合し、一体化した全体像にすべく変換しても、それは「すべく変換」であって、モニター画面の中でしか一体化・全体化はなされない。

それは、まったくもってほんとに、脳と意識の主体、の関係に似ているといえる。
よって、その例えは的をいているといえる。
そのように似ているから、脳と意識の関係をコンピューターの本体とモニター画面に例えたのであるが、
それとは別に、コンピューターを先にもってきて、脳と意識の関係もそれと同じなのではないか、という主張もありうることである。

そこから人間について考えると、
情報が統合されるのは、意識の主体内で、ということになるだろう。
そして、意識の主体は脳の中には見当たらないということもいえる。


以上は、脳の中で局所的に情報処理された情報は、脳の外にある意識の主体(外といっても脳に重なっている可能性を含めています)に送り込まれた時点で、統括され一体化された全体像をもつ情報「波動パターン」になる、というイメージを浮かび上がらせる。

つまり、仮に、脳の内部で、局所的処理を行った情報たちを統合・一体化した全体像にすべく変換しても、それは「すべく変換」であって、意識の主体の中でしか統合・一体化・全体化はなされない、ということになる。

以上、参考)


そこで、その「変換」を研究するにはどうすればいいか考えてみましょう。

脳におけるニューロンの活動を観察記録し、さらに、意識の主体における波動のようすを観察記録する。

最小単位時刻毎にそれらを比較する(もちろん、記録をなさず、同時に比較してもよい)。

すると、その「変換」がわかる。

ほかのやり方もあるでしょうが、基本的にはそういうことですね。

注)ニューロンたちの活動において、時間的にズレのある情報処理による結果の情報が、意識の主体内では同時の情報となっているケースも多いので、最小時刻・時間について難しい問題があるのかもしれない。
可能性として、ある時間範囲内にあれば同時という処理がなされる、といったことだろうか。ほかにも、よくはわからないが、切り上げ、切捨て、などという処理が行われている、と表現してみよう(表現しただけで、その意味はよくはわからない)。

注)この直前の、注)において、「時間的にズレのある情報処理による結果の情報が、意識の主体では同時となっているケースも多い」と記した直後に得たイメージであるが、
そのことは、脳の活動の中には意識はない、ということを示している、といえそうである。



つまり、脳におけるニューロンたちの活動をなんらかに記述し、それをなんらかに変換すると、意識の器の中での複雑な波動パターンとその経時変化がでてくる、という関係になっているわけです。
(たとえば、フーリエ級数と一本化した複雑な波動。たとえば、行列と一本化した複雑な波動。たとえば、元の映像とホログラム。など)


こういう可能性も考えられる;
脳はホログラフィー的な機能をもっていて、つまりホログラムの干渉縞の機能のようなものをもっていて、脳から局所的処理を行った情報を意識の器に送り込めば、その機能によって意識の器の中で一体化・全体化された情報に統合される、という可能性もありうる。




こういう可能性も考えられる(既に少し触れましたが);
池の水面の全体に数多くの砂粒をバラバラに落とすと、水面に数多くの波源が生じ、それらが自然に干渉しあい合成されて複雑な波紋(波動パターン)が生じ、それが時間とともに変化していく、というモデルが非常に参考になるだろう。

その波紋とその変化が、一体化された全体像としての意識内容、というわけです。




MRI的手法を用いると、そこのところに迫れるかもしれません。
MRIでの解析においてもフーリエ変換(二次元、三次元)が用いられているので、なおさら参考になるかもしれません。
MRIにおいては、脳のすべての位置からでている情報が、すべて混じり合って、一本化された信号(たとえば、絵の情報を電送するとして、電送するその信号のようになっている)(ある意味、ホログラムにもいくらか似ている? 原理は異なるけれど、似た面がありそうです)になるので、それをフーリエ変換で、元の情報に戻し(そのときに位置の情報まででてくる)、脳のすべての地図のようなものを作る、ということをやっているようですから、参考になるかもしれません。
それは、局所的なさまざまな情報が一本化されている姿(変換するまでもなく、自然にそうなる)を示しているという面ももっています。
(それは、オーケストラの演奏をマイクで拾うと、一本化された音楽情報になっている、というのと基本的に同じです)。
それを脳と意識の器の関係にもっていくと、
脳のあちこちのニューロンが活動し、そのときにそれぞれが電位や磁界の変化を生じ、それら変化たちがそこから出ていき、(ほんの)少し離れたところでは、それら変化たちが入り混じって一本化された情報(変化・変動)になっており、それが意識の主体に送り込まれると、本来の心的内容・意識内容になってしまう、というイメージですか。
あるいは、少し前に述べたような、意識の器には、ばらばらな情報のままで入る、というモデルの方があたっているのかもしれません。
ともかく非常に参考になりそうです。

注)MRIについては、参考になりそうな気がしたので、ネットで探して、難しいことがたくさん書かれているのを、さっと見ただけですので、勘違いがあるかもしれません。
そのほか、もちろん、私の書いているものすべてについても、勘違いや間違いはあるでしょう。イメージスケッチ・書きなぐりですから。


脳波もそれらになんらかに関係しているかもしれません。
脳波をフーリエ変換すると、ニューロンたちのそれぞれの活動のようすがわかるとか(ひとまとまりになったもの→個々)、
脳波は、意識の器の中での波動パターンになんらかに対応しているとか、
そういった関係になっているのかもしれません。

参考までに:
位置ベクトルの場合、なんらかの位置ベクトルを加えると、視点を変換することができる。たとえば、かなり以前に述べた(ブログで)惑星の運動量時間回帰における視点で、惑星自体から見る立場を、太陽から見る立場に変換する例を挙げた。
そこには、ホログラフィーと共通したなにかがあるのではないか。


で、意識の器の次元を、一応、時間変化を伴った三次元として、
フーリエ級数的に、その基本波動をはじめとしてうんぬん、ということも既に書きましたが、それは波動関数ということになるんでしょうね。

「変換」を追求していくと、複素数空間(複素空間)がでてきて、複素数空間は実在する、そこに「意識の器」は存在する、という結論に至るのかもしれません。





(以上、意識とクオリア03まで、すべて)




(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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